自民党総裁選挙。
それは、明日の日本のリーダーを決める選挙であり、今まさに、それが行われています。
しかし、その舞台に立っている5人の候補者からは、国を変えるようなビジョンも、未来を背負う覚悟も、ほとんど感じられません。
一昨日日曜日の夜に放送された地上波のニュース番組は、どのチャンネルも討論会一色。
しかし、そこで交わされていた議論は、スケールの小さい、のんびりとした「できそうなこと」の羅列にすぎず、「日本の将来を担う本気の国家戦略だ」とは到底言えないものでした。
私たちの国は、いま深刻な衰退の局面にあります。
GDPは、ドイツに抜かれ、インドにも抜かれ、世界第5位に転落しています。
このままの歩みでは、韓国に追いつかれ、やがて追い越される未来も見えてきています。
その根本的な原因は、政治家のスケールがあまりにも小さくなったことにあると考えています。
もはや日本は、「できることだけをやる」政治家ばかりになってしまいました。
今こそ、「できないと言われていることをやる」覚悟のある政治家が必要なのです。
「現実的」な政策を語るのではなく、今の日本に必要なのは「非常識を現実に変える政治家のスケール」です。
しかし、今回の自民党総裁選挙にはその視点がまったくありません。
国家像を描かず、ただ局所的な課題に言及し、耳触りの良い言葉を並べる候補たち。
そこには、戦後日本が積み上げてきた民主主義の成熟も、未来を開く志も見出せません。
もし、下地幹郎がこの総裁選挙に出るとすれば、国家の骨格として、次の3つの改革を提案します。
一つ目は、「議院内閣制の廃止と首相公選制の導入」です。
国民が直接、リーダーを選ぶ。
この制度改革によって、日本はようやくスケールの大きい政治家が登場する国家になります。
二つ目に、「衆議院と参議院を統合した一院制」の導入。
今の二院制では、法案の停滞と責任の分散が常態化し、何一つスピーディに進みません。
世界の潮流はむしろ、深掘りと迅速性を両立させる一院制です。
三つ目に、「税制の根本的な見直し」です。
日本の今の税制度は、あまりにも「罰則的」です。
稼げば課税(所得税)、使えば課税(消費税)、残しても課税(相続税)・・・。
これでは、国民のやる気を削ぎ、経済を停滞させるばかりです。
私は、消費に対して課税する「フロー課税」と資産に対して課税する「ストック課税」を組み合わせた新たな税制に変えるべきだと考えています。
例えば、年収300万円の人が、全ての収入を県内で消費すれば、課税はゼロ。
一方で、年収1000万円の人が、県外で200万円を消費すれば、その200万円に課税する。
また、1億円の資産を持つ人には毎年1%、10億円なら毎年1000万円の課税。
これは貯め込みを抑制し、社会への還元を促す制度であり、所得税・消費税・相続税を廃止し、新たな「分散型の成長税制」を実現するものです。
現在の総裁候補者たちは、こうした構造改革に一切触れようとせず、相変わらず安全保障の議論においても「自立した決定をする」と口では言いながら、実際にはアメリカの一声に逆らえない外交姿勢のままです。
言葉だけの主権、言葉だけの防衛。
それが今の日本政治の本質です。
外国人労働者に関する議論についても、まったく筋が通っていません。
これまで外国人労働力の導入を推進してきたのは、他ならぬ自民党政権であり、外国人がこの国の人手不足を救ってきたのです。
にもかかわらず、今になって彼らを排除するような発言をするのは、責任放棄以外の何ものでもありません。
私は衆議院議員現職の時、国会において、当時の安倍晋三総理大臣に対して、「就労の前に就学を」と訴えました。
つまり、外国人を受け入れるなら、日本語・日本文化の教育を通じて、日本社会にしっかりと馴染ませる必要があるということです。
私のこの提言こそが、共生社会を築くために必要な視点なのです。
いまや外国人労働者がいなければ、コンビニも、物流も、建設も、日本の経済はなにも回らないという現実に向き合わず、彼らを排除するような論調を唱えることは、自らが作り上げた政策への背信であり、矛盾でしかありません。
今回の総裁選挙を見ていて、私が抱く感情はただ一つ。
「このままでは、この国は変わらない」という危機感です。
あまりにも低次元の議論。
見識も、理念も、国家観もない。
これが日本の未来を預けるリーダーの姿なのでしょうか?
勉強不足のまま、候補に立つべきではない。
スケールの小さな話に終始する者に、国を託すべきではない。
日本を変えるには、痛みを伴う改革も、非常識に挑む勇気も、そして何よりも「未来を本気で描く力」こそが必要なのです。